九州王朝説を唱えておられる古田武彦氏の見解を中心にして、自分自身が正しいと考える仮説を述べたいと思います。
九州最大級だった大宰府の古代施設
 九州王朝が存在したのですから、当然のことです。
http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20091021132.html
飛鳥京苑池で海水魚の骨 - 古代内陸遺跡で初
 半年ぶりの書込みです。

 「明日香村岡の飛鳥京苑池(7世紀中ごろ)で、ブリやスズキなど、海で捕れる魚類の骨がまとまって出土していたことが分かった。」そうです。
http://www.nara-np.co.jp/20090715111816.html
乙巳の変、再考について
 みなさん、新年明けましておめでとうございます。半年ぶりの投稿です。

 今日、書店で『なかった』第5号に古田氏が、「乙巳(いつし)の変」について寄稿されていましたので、読みました。その内容は、乙巳の変の時期を12年後にずらした上で、変が起こった場所は、奈良ではなく福岡であるという見解を述べられておられます。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

福岡正信氏が亡くなられました
自然農法で有名な福岡正信氏が亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

テーマ:死亡記事 - ジャンル:ニュース

みなさんへ
 みなさん、こんばんは。

 日頃は当ブログをご覧いただいて、真にありがとうございます。
 さて、一身上の都合により、年内中は投稿を停止させていただきます。来年の早々には復帰したいと考えておりますので、その節はよろしくお願いいたします。

 それでは、失礼いたします。
常世の国
 最近刊行された古代史関係の新書を書店で見たのですが、「常世の国」を死者の国と理解されている方がおられます。古田氏は、“常夏の国”と考えておられます。私もその見解に賛同します。
 
 みなさんにとっては、驚かれることだろうと思いますが、卑弥呼の祖先は、太平洋のどこかの島(古田氏はパラオと推測されています。)からやって来たのです。

 私の推測ですが、彼らはもともと現在の鹿児島あたりに住んでいたが、霧島山の噴火によってそこには居住できなくなり、新たな土地を探すために太平洋を船出したと推測しています。それが、何とアメリカ大陸まで到着地し、さらにそこから南下して、現在のエクアドル(魏志倭人伝に記述されている「裸国・黒歯国」)に到着・定住したものだと考えるのです。
 その後、そこを全員が立ち去ったのか、一部の人間だけが出発したのかは分かりませんが、パラオに移住したものと想像します。

 そして、幾年か経過後に、母なる土地を目指して、沖縄等を経由して、鹿児島に向かったのですが、すでにそこには、他者が居住しているため、壱岐、対馬に定着し、その後、天孫降臨によって現在の福岡県に移住したものと推測しています。これらは、あくまで私の推測ですから、一部、誤りがあるかもしれませんので、ご承知おきください。

 私はこのような壮大な推測を描いていますが、研究者のみなさんがこのような推測もあるということを承知されて研究され、“真実の古代史”を探求されることを希望して、私の書込みを終わりたいと思います。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

鶴は千年、亀は万年
 昨年のお正月に書いた文章です。非常におもしろいので、一読ください。

  鶴は千年、亀は万年

 お正月ですから、鶴と亀に関係する話を書きます。また、歴史的な記述については、論証を伴いませんので、奇異に思われる方もおられるでしょう。
 しかし、このような日本古代史における見解があることをと知っていただきたいと思い、執筆したものです。

 私たちが住むこの日本列島は、鶴と亀(海亀)が“出会う”場所です。シベリア大陸からは丹頂鶴が、産卵と子育てのために飛来し、太平洋からは海亀が産卵のためにやってきます。これは、私たち日本人の祖先が辿った道と同じだ、と下記の参考の1で紹介する古田武彦先生が述べられています。
 また、次の文章は、古田先生の見解を基に、私見を含めた内容ですので、その文責はすべて私にあることを予めお断りしておきます。

 まず、日本人の祖先は、シベリア大陸からこの日本列島にやって来たのです。その時には、驚いたと思います。シベリアで冬になればいなくなる鶴が、この日本列島に来ているではないですか! 
 そして、ここから話が非常に飛びますが、このシベリア大陸からから来た民族によって、出雲王朝が樹立されました。毎年11月頃は、神無月と呼ばれ、西日本の神様が出雲に集まっていたのです。

 次に、古田先生の他の文献によれば、パラオ島あたりから南方民族・・・天(海士)族が海を北上し、壱岐・対馬を活動の拠点としました。彼らの中から、天照大神が生まれ、天照大神は、出雲王朝の家臣(家来)だったのです。対馬の古老の話では、天照大神も出雲に毎年出かけていたそうです。他の神様よりも一番遅くに出雲に着き、一番早くに出雲を発たれたそうです。つまり、家来の中で一番偉かったことを意味します。

 その後、私見ですが、この天族が、紀元前233年頃に出雲王朝に対して、“国譲り”を迫り、福岡・博多湾岸に“天孫降臨”と呼ばれている侵入を企てました。この天族によって、後に卑弥呼が登場する“九州王朝”が樹立されたのです。

 みなさんは、国譲りや天孫降臨は“神話”だと考えられておられるでしょうが、神話ではありません。歴史的な事実です。それから、古田先生や私は、『国民の歴史』グループとは何ら関係がありませんので、誤解のないようお願いします。

 このように、日本列島(主に西日本)は、出雲王朝、九州王朝、そして、現在の皇室の起源である大和王朝と王朝が変遷しているのです。この王朝の変遷を前提として、皇位継承問題を始めとする皇室に関わるすべての問題を議論していただきたいというのが、私の希望するところです。

 さらに私の推測ですが、この天族も元々は日本列島の千葉か鹿児島あたりに住んでいた人たちが、黒潮に乗り、南米大陸のペルーやエクアドルに居住後、一部が太平洋に繰り出し、先住民との接触が持ちながら、パラオ島を拠点としたものと考えています。そして、さらにパラオ島から日本列島に向けて北上したわけですから、その途中にある沖縄の人たちの祖先とこの天族とは、深い関係にあっただろうと予想しています。

 日本列島の歴史的な権力の変遷が、鶴(千年)よりも亀(万年)の優位を示し、さらには、私たちが、おめでたい時に、山や畑から採れる産物よりも鯛や海老などの海産物を重宝する理由が隠されているのではないでしょうか?

 (参考)
 1 古田武彦執筆「六 鶴と亀の交わるところ − 日本列島」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen

 2 鶴・亀
http://www.taka.co.jp/okuru/engi04.htm

 3 天孫降臨の真実
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/kourinj.html

 4 新古代学の扉
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

『文明の環境史観』の「まえがき」
 日本人や日本が今後21世紀をどう歩めばよいかを考えるための資料です。特に、学者・研究者のみなさんがお読みいただいて、今後の研究を進める上で、なにがしかのお役に立てれば、幸いです。

 それでは、次に、国際日本文化研究センター教授の安田喜憲著『文明の環境史観』(中公叢書、2004年5月10日発行)の「まえがき」を転記します。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120035131/503-8677794-9695922

「 まえがき

 現代文明の抱えた問題、それは文明が大地を忘却したことにある。文明は大地と人間のかかわりあいの中で誕生し発展してきた。だがグローバリズムの進展の中で、現代文明はいつしか、大地と風土性を忘却し、暴走しはじめたのではあるまいか。

 大地を忘れた文明論が勢いを増してくると、人間社会には大きな悲劇がもたらされる。大地がかもしだす風土性を忘却した歴史観の代表が、人間中心史観である。大地や風土の相違にかかわらず、人類の文明は無限に発展するという歴史観によって、地球の無数の命が失われ、今、この時においても、何千、何万という命が地球から消えていく。

 不思議なことだが、研究者が大地にしっかりと根を張り、大地や海のかもしだす風土性とのかかわりを考察している限りにおいて、その精神と肉体は健全であり、その研究者がつむぎだす学問もまた、悠久の命を得ることができるように私には思われてならない。

 日本人は、日本とはまったく異質の風土に育った海外の権威に弱い。そこには、珍しい物は海の向こうから来る。海外はこの閉ざされた島国よりもいつも発展しているという、島国特有の風土の下で醸成され、何千年にもわたって植え付けられた、一種の強迫観念にも似た日本人の精神構造があるように思われる。江戸時代までは中国を礼賛し、明治維新以降は西洋文明を礼賛し、第二次世界大戦以降はアメリカ文明を礼賛してきた。海外の権威者は、あたかも神のごとくに祭りあげられて、本来公平であるべき学会が、宗教結社のごとき集団を結成した時さえある。日本人は学問をするのではなく、欧米文明礼賛の宗教的儀礼を行っていたのではあるまいかとさえ思われる時代があった。そしてその結果、日本人は明治維新以来、とりわけ第二次世界大戦の敗北によって、圧倒的な欧米文明の前に、自ら考えることを放棄することになった。

 しかし、ヨーロッパの大地と日本の大地は異なる。その異質の大地と風土にしっかりと根を張った学問は、おのずからヨーロッパのそれとは異なるはずである。しかしながら、その大地を研究する学問でさえも、ほんの最近まで欧米中心の環境史観から自由であることができなかった。ヨーロッパアルプスの氷河の編年は、なんの疑いもなく、いや輝かしい文明の光と権威さえともなって、日本列島の第四紀の編年に適用された。気候変動もヨーロッパの気候変動が標準だった。われわれは日本列島を含むモンスーンアジアの気候変動を、ヨーロッパのそれにあてはめていくという作業を、何の疑いもなくくりかえし行ってきたのである。

 だがわれわれによる「年縞(ねんこう)の発見」によって、高精度の環境史の復元が可能となった。年縞の分析によって過去の環境が年単位いや季節単位において、それぞれの地域において復元することが可能になると、ヨーロッパの編年は、地球規模でみれば、きわめて特異な現象であることが、明らかになりはじめてきたのである。いやむしろ、われわれの住むモンスーンアジアこそが、地球環境変動のトリガー(引き金)である可能性さえ出てきたのである。このモンスーンアジアの編年に、ヨーロッパの研究者が自らの編年をあてはめなければならない時代がやってきつつあるのである。

 こうした近年の新しい環境史の成果は、これまでのわれわれの大地と風土に対する見方に根本的な転換をせまりつつある。暑熱と湿潤が結合し生き物に充満した、耐えがたい風土と、人間の理性を発展させない過酷な風土とみなされてきたモンスーンアジアの風土が、今や、地球環境変動の鍵を握る重要な役割を果たし、生物の多様性を温存し、人類の未来にとってはかけがえのない風土であるとみなされるようになった。それとともに、そこに暮らした人々の生活や文化が見直されはじめた。これまで未開・野蛮の暮らしを長い間続けていたとされる稲作漁撈民が、文明を有していたことが明らかとなってきたのである。それが長江 (ちょうこう)文明である。しかも、その長江文明は、これまでの古代文明よりいち早く、都市文明の段階に到達していた可能性さえでてきたのである。

 文明は大地と人間のかかわりの中で誕生し、そして発展してきたものである。そのモンスーンアジアの大地と風土が、地球環境変動のトリガーであり、世界に先駆けて変動しているのであれば、文明もまた、世界に先駆けて誕生していてもおかしくはない。

 不思議なことに、大地と深くかかわる中で人間が創造した芸術作品は、悠久の命をもつ。学問も同じであると思う。大地とのかかわりにおいて展開される研究は、人間中心主義に立脚した研究より、はるかに長い命をもつことができるのではあるまいか。なぜなら、自然の存在は、人間の創造物をはるかに凌駕する存在であるからである。

 この宇宙において真に信じることができるのは、自然であり大地である。命の長い健全な文明論もまた、その自然・大地とのかかわりを無視しては、存在しえないのである。

 そして大地と風土とのかかわりにおいて文明や歴史を論じることによって、西欧中心史観、人間中心史観からの完全な離脱も可能となるのである。そのことによって、長い西欧文明礼賛の時代は幕を閉じ、新たなアジア中心史観、環境史観に立脚した人類文明史の構築が可能となるのである。筆者は本書において、大地に根ざした文明論を展開し、新しい地球史、新しい人類文明史を構築する第一歩を踏み出したと思う。」

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

豊後なる「天の香具山」の歌・・・大分県在住・出身のみなさんへ
 私は、古田武彦氏が提唱する「九州王朝説」を支持しています。
 しかし、妄信しているのではありません。自分自身で正しいと判断するから支持しているのです。

 豊後なる「天の香具山」の歌・・・大分県在住・出身のみなさんへ

 昨日の別府・大分マラソンの記事に続いて、大分県に関わる話です。それは、日本古代史の研究者で元昭和薬科大学教授である古田武彦先生の著書をお読みの方なら、すでにご存知のことだと思います。

 さて、みなさんは、次の万葉集にある舒明天皇の御製とされる歌をご存知でしょう。
「大和には、群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は」

この現代訳(中西進著『万葉集 全訳注原文付(一)』47頁、講談社文庫、1978年8月15日発行)は、次のとおりです。
「大和には多くの山があるが、とりわけてりっぱに装(よそお)っている天の香具山、その頂に登って国見をすると、国土には炊煙がしきりに立ち、海上には鷗が翔(かけ)りつづけている。美しい国よ、蜻蛉島大和の国は。」

 しかし、古田武彦氏は、大和(奈良県)で、海原(海)が見えるのか? 鴎がいるのか? と疑問とされ、この歌は、大和ではなく現在の大分県別府市あたりで歌われたものであり、さらに、「天の香具山」とは、大分県の方なら慣れ親しむ鶴見岳と考えておられます。

 まず、 屬箸蠅茲蹐奸廚箸蓮◆屬箸蠅錣韻討蠅辰僂冒っている」という意味ですが、香具山は、他の畝傍山や耳成山と比べてそれほどりっぱな山なのか? 
 歌の最初の「大和」の原文は、「山常」ですが、これは「やまね」と呼ぶべきではないのか? 
 2里虜埜紊痢崑舅臓廚慮曲犬蓮◆嵌間跡」ですが、これは、「はまと(浜跡)」と読むべきではないのか? 
 ぁ帷驩(あきづしま)島」は、国東半島にある安岐という地名がありますが、「安岐津島」ではないのか? 
 ァ峭餮兇蓮 ̄賣ち立つ」の「煙」は、「民のかまどの煙」と理解されているが、温泉の湯が溝に流され、それが冷たい外気に触れて「煙」となって立ち登ったものではないのか?
 Α崚靴旅甼饂魁廚痢崚掘廚蓮◆嵎棉槝僂魎泙猖後国(大分県)の古名が『安萬(あま)』であることは知られている。「和名抄」に出ている。」ように豊後国を指すのではないのか?

 それでは、古田武彦著『古代史の十字路 万葉批判』72頁(東洋書林、2001年4月20日発行)から転記します。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4887214987.html

「天の香具山」の歌(巻一・二)
 山根(やまね)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立ちたつ
 うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 浜跡(はまと)の国は

<原文>(元暦校本)
 山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加万目立多都 怜忄可國曾 蜻嶋 八間跡能國者

(注:忄と可とは、一字です。)

<現代語訳>
 山並みには多くの山々が群がっているけれど、なかでも一番目立ち、ととのっているのは、天の香具山だ。登りたって、国見をすると、国原には煙が一面に立ち上り、海原には一面に鷗が飛び立っている。
 すばらしい国だ。安岐津(あきつ)の島の この浜跡(はまと)の国は。

<注>
(1)「蜻嶋(あきづしま)」は安岐津島。安岐(地名)は国東(さき)半島にあり、別府湾の北端部。関門海峡側から見て、別府湾の入口に当る。現在、大分空港近く。「安岐津」は別府湾をさす。
(2)「八間跡」は「はまと(浜跡)」。別府湾岸の右隅に「浜脇(“浜湧き”か)温泉」がある。(現在、浜脇区)
(3)この浜脇区の奥(山ぞいの地)に「登り立(のぼりたて)」の字(あざ)地名が残されている。

 (参考)
 「天香具山 登り立ち 国見をすれば」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jbeppu/jbeppu.html

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

継体の乱はなかった
 みなさんは、“磐井の反乱”と理解されているでしょうが、古田史学ではこれまで“継体の反乱”と考えていました。九州王朝に服属する継体というように、一般に理解されている主従関係とは逆の関係だと看做していたからです。

 そして、今回、古田氏が継体の反乱もなかったと見解を変更されました。私は初めてその改説を知った時、「古田さん、それはないよ。継体の反乱でそれ以後の史実を構築していたのに、今さら変えられても」というのが、正直な気持ちでした。

 しかし、前回に書きましたように私も「継体の反乱もなかった」説に同調するのは、次の理由からです。

 第一に、「神武の大和侵入」において、銅鐸文明圏内の一つの主要な中心地である東奈良遺跡(現大阪府茨木市)への神武の奇襲攻撃は、同じ銅鐸文明圏の唐古遺跡(現奈良県田原本町)側の誘導によってなされたと判断したからです。ですから、神武は大和に侵入したものとは考えません。

 奇襲攻撃は失敗しましたが、その論功行賞によって、「畝傍(うねび)の白檮原(かしはら)宮」の地を唐古遺跡側から貸し与えられたと判断しました。神武は、良く言えば、“客人”、悪く言えば、“居候”だったのです(笑)。記紀の大和侵入譚は、九州王朝史書からの盗作で、この盗作説は、古田史学の会事務局長の古賀達也氏が提起されたものです。

 第二に、私は、継体以後の史実を次のように捉えているからです。

 継体の息子である欽明は九州の地で人質として一生を終えた。その欽明の息子である敏達が蘇我馬子とともに吉備に進軍した(574年)。

 以上のように考えますので、記紀に書かれているからといって、簡単に信用できないという判断から、古田氏の「継体の反乱もなかった」説に賛同するものです。

 また、私は、磐井は、反乱によって殺されたと考えていますし、継体も同じように反乱で死亡したと考えています。ですから、その事実を隠すために造作したものと推測する訳です。後日、このことについて、書きたいと思います。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

「磐井の乱」はなかったか?
 古田氏が磐井の乱がなかったと考える理由は次のとおりです。

 第一に、古事記・日本書紀の両者に記述があるからといって、史実とは証明できない。

 第二に、九州王朝の年号に断絶がない。古田史学では、大和王朝に先立つ九州王朝には、すでに年号を使用していたと考えています。磐井(私見では、「倭武 (いぶ)」と同じように、「倭拝(いはい)か?」と考えます。)は、九州王朝の天皇(私見)ですから、殺害されれば、当然に年号の変更があるという推論です。

 第三に、筑後國『風土記』に継体の軍隊が、磐井を殺し、石人や石馬を壊したと書かれており、そして、現在の岩戸山古墳には壊れた石人や石像がある。

 しかし、この破壊活動は、白村江の戦い以後に日本に進駐した唐の軍隊が破壊したものであるという仮説を立てられています。

 第四に、磐井の乱以後に北九州地域の土器の様式が一変していない。

 私見の結論は、「磐井の乱(継体の反乱)があったとは証明されていない」ということです。

 しかし、磐井は、殺されたと考えます。別に、反乱を起こしたのが、継体でなくても良いからです。

 では、古田氏の論拠を検討しましょう。
 第一の論拠はそのとおりです。古事記・日本書紀に記述されているからといって史実とは限りません。しかし、逆に史実ではないとも証明できません。
 
 第二の論拠は理由に当たらないでしょう。磐井時の年号を特定できないからです。

 第三の論拠も当たらないでしょう。継体の軍隊に石人等が破壊され、磐井の息子である葛子によって回復されたが、さらに、唐軍によって再び破壊されたとも考えらるからです。
そして、第四の論拠ですが、これも理由にならないでしょう。書紀は、磐井を殺したが、北九州地方を制圧したとは記述していないからです。ですから、土器の様式が変化していなくてもおかしくないのです。

 以上のとおり、古田氏の第一の論拠以外には賛成できませんが、「継体が反乱を起こしたこと」は証明されていないのです。ここで、私も見解を変更したいと思います。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

二人のハツクニシラススメラミコト
 古代史では、「二人のハツクニシラススメラミコト」が問題となっています。これは、神武(狭野命)か、第九代の崇神(御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと))のいずれが、日本国の建国者かという議論です。

 建国記念日を祝う方は、当然に神武が建国者とみなしているでしょう。

 一方、神武から第八代の開化(若倭根子日大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと))までは、記紀編者の造作であるとする架空説があります。この架空説からすれば、崇神が、建国者となるでしょう。

 では、神武から開化までの八人は、架空だったのでしょうか?
 これまでの書込みを読んでいただいた方にはご理解していただいていると思いますが、私は架空ではなく、実在したと考えています。

 しかし、前回の「神武は、居候だった?」で書きましたとおり、神武は土地を貸し与えられていただけだと推測するのです。ですから、神武は、自ら木を切り、土地を耕しすなど農耕をしていたと想像します。開化までも同様の生活をしていたのでしょう。

 さらに、ただ単なる居候ではなく、九州王朝の威光を背景としていたことも確かなことだと思うのです。それは、他の地域では銅鐸が盛んに作られた時期に、奈良盆地から銅鐸が消滅したことが、それを示していると考えます。この銅鐸の消滅をもって、かつて古田武彦氏は、神武から開化の存在の証明であることと奈良盆地内の支配拡大だと主張されました。私も当時は古田氏の見解が正しいと考えました。

 しかし、現在では、神武等に“銅鐸人”は支配されたものではないと考えています。九州からやって来た神武の後継者を飾りとしてトップに頂いたとしても、支配・被支配の関係ではなかったのではないでしょうか?

 そして、古事記の崇神紀にある「ここに初めて男(をとこ)の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女(をみな)の手末(たなすゑ)の調(みつぎ)を貢らしめたまひき。故、その御世を稱(たた)へて、初国知(はつくにし)らしし御眞木天皇(みまきのすめらみこと)と謂ふ」は、字句のとおりそのままに理解して、初めて、被統治者を統治したと理解すべきものではないでしょうか?
崇神自身が弓を作らなくてもよくなった喜びを、素直に表現しているのではないでしょうか?

 もし、そうであるならば、皇国史観の持ち主ならいざ知らず、崇神を建国者と考えることはできないでしょう。そこらじゅうに、“国”を持っていた者は多いからです。私には、神武、崇神のいずれも、日本国の“建国者”とは考えることはできません。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

神武は居候だった?
 私は、古田氏の見解から神武の東方への移動時期を紀元57年頃と考えています。
 それでは、古事記ではどのように記述されているのでしょうか?

 古事記では、「神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこ)、その同母兄(いろせ)五瀬(いつせ)命と二柱、高千穂宮(たかちほ)宮に座(ま)して議(はか)りて、云(の)りたまひけらく、『何処(いずこ)に坐(ま)さば、平らけく天(あめ)の下(した)の政(まつりごと)を聞(き)こしめさむ。なほ東 (ひがし)に行かむ』とのりたまひて、」と書かれています。最初から、大和に侵入する考えなどはなかったのです。

 そして、神武ではなく、兄である五瀬命をリーダーとして、阿岐(あきの)国(現在の広島県)、吉備(同岡山県)と良い土地はないかと移転したのです。ここで、日本書紀には、神武を狭野命(さののみこと)と記述していますので、以後、狭野命と呼びます(書紀では、「尊」ですが、ここでは「命」を使用します)。

 五瀬命と狭野命は、吉備から船で淡路島と徳島県との間の鳴門海峡を通り、大阪湾から淀川を上り、銅鐸文明圏の一つの中心地域ある東奈良遺跡(大阪府茨木市)、または、上の山遺跡(大阪府枚方市と交野市にまたがる地域)への奇襲攻撃をかけたのです。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50302b.htm

 いずれの地域かは特定できませんが、ここでは、東奈良遺跡に侵入したと仮定します。そして、人数はたぶん数十人と推測しますが、失敗に終りました。現在の地形では、船で行ける場所ではありませんが、1世紀頃は、現在の大東市、四条畷市、東大阪市の北部は海の下で、大阪湾に繋がっていたのです。

 しかし、登美毘古(とみびこ)に破れ、敗走します。敗走の途中、リーダーの五瀬命は亡くなったため、「紀国の竈山(かめやま)」に葬られました。狭野命は、それから紀伊半島を迂回して、熊野にたどり着き、「高倉下(たかくらじ)」の協力を得て、紀伊半島の獣道を北上して、「畝傍(うねび)の白檮原(かしはらの)宮」で支配したと書かれています。

 古田氏は、これを“歴史的事実”とされたのです。私も正しいと考えました。

 しかし、この記述を史実だとすると、次の疑問が生じます。

 第一に、なぜ、敗走したのに吉備に戻らなかったのでしょうか?五瀬命が死んだぐらいですから、けが人もいたはずです。奇襲攻撃の場合に、こんな軍事的行動はあるのでしょうか?

 第二に、東奈良遺跡派と銅鐸文明の一方の一翼を担う唐古遺跡派(現奈良県田原本町)は、なぜ、侵略を許したのでしょうか? 唐古遺跡派に、狭野命を撃退する力がなかったとしても、東奈良遺跡派は、なぜ、撃退に協力しなかったのでしょうか? このことから、両派に深刻な対立があったのではないかと推測する訳です。

 第三に、人間の生存に不可欠な塩はどこから得ていたのでしょうか? やはり、高倉下から得ていたと思います。回りは敵ばかりですから。

 しかし、高倉下もいつもタダということはなかったでしょう。やはり、狭野命は米等と交換していたのではないでしょうか。重い米を担いで、獣道を崇神が河内平野を平定するまでの約150年間(推定)、熊野に通ったのでしょうか?

 こんな疑問を抱いていたところへ、古田史学の会事務局長の古賀達也氏が、熊野へ迂回して、大和に侵入した記述は、九州王朝の史書からの盗用であるという見解を発表されました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou48/koga48.html

 この古賀氏の見解には、古田史学内部で賛否両論があるそうですが、私は上記のような疑問を抱いていましたので、古賀説に賛同し、狭野命は、紀ノ川を登り、橿原に着いたと考えます。

 とすると、狭野命の「天(あめ)の下治(したし)らしめしき」とは、いったい何だったのでしょうか?

 私は、大胆に、東奈良遺跡派への奇襲攻撃に対する唐古遺跡派からの“論功行賞”だったのではなかったかと考えます。そのように考えると、私の疑問はすべて氷解するからです。

 狭野命(神武)は、唐古遺跡派にとって、良く言えば“客人”、悪く言えば“居候”だったのではないでしょうか。

 (参考)
 「神武東侵」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimmuj.html

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

天孫降臨について
 みなさんは、天孫降臨という言葉をご存知だと思います。天皇の祖先が、「天から降りたって、この日本を統治された」という程度でご存知でしょう。

 しかし、現在の天皇も天皇の祖先も“人間”ですから、天から降りることは出来ません(笑)。それで、天孫降臨など架空の話だと、特に左翼系や進歩派の評論家は主張していたのです。

 では、古事記(712年に編纂)はどのように記述しているのでしょうか?

 古事記には、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)のくじふる嶽(たけ)に天降りまさしめき。」、(中略)
「此此(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を眞來通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。故、此此は甚吉(いとよ)き地(ところ)。」と書かかれています。

 この「日向」は、「ヒムカ」でも「ヒュウガ」でもありません。「ヒナタ」と呼ぶべきです。福岡県には、日向(ヒナタ)峠があります。また、「竺紫」は、九州全体を指すのではなく、現在の福岡県の筑紫地方を指していると考えます。
さらには、「韓国に向かひ」とあるので福岡県以外に考えられないでしょう。

 あくまで私見ですが、天孫降臨とは、紀元前233年頃に壱岐・対馬を中心に勢力を保持していた“海族”である「天孫(ニニギノ命)」(天とは、海の美称。) が、海を渡って、筑紫地方に侵入したものです。『魏志倭人伝』にある「大人」は、侵入者の子孫で、「下戸」は、被支配者の子孫です。この大人の階級から卑弥呼が現れました。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

乙巳の変について (2) 
 あくまで私の推測ですが、次の状況下で乙巳の変は、起きたと考えます。

 第一に、蘇我入鹿の主要な部隊が九州(たぶん朝鮮半島)に派遣されていた時に起きたものである。だから、天智の“反乱”に対抗できなかった。

 第二に、皇極王の嫡男であり、天智の兄である天武が九州王朝の人質として九州にいた。だから皇極王が、天智の反乱に加担することはあり得ない。

 第三に、天智は蘇我分家と縁戚関係にあった。蘇我宗家は、王家の主流と縁戚関係を結び、蘇我分家は、王家の傍流と縁戚関係を結んでいた。

 以上のような状況下で、天智が反乱を起こすとは予想だにできなかったものと思われます。蘇我入鹿は、まるで、本能寺の織田信長です。ここで誤解がないように付け加えておきますが、蘇我家は、九州王朝によって、九州から派遣された一族だと考えています。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

乙巳の変について (1)
 大化の改新とは、645年に中大兄(後の天智)と中臣鎌足らが、蘇我入鹿を暗殺した事件ですね。
 しかし、学者には、日本書紀に記述する改革の信憑性に疑問を持ち、大化の改新ではなく、「乙巳の変」と呼ぶ方もおられます。

 私は、この事件は、表面的には、蘇我宗家(入鹿)と蘇我分家(倉山田麻呂)の争いではなかったのかと思います。

 ここで重要なことは、入鹿を斬った天智が、母親である皇極王に対して、「鞍作(「くらつくり」、入鹿のこと)、天宗(きみたち)を尽(つく)し、滅(ほろぼ)して、日位(ひつぎのくらい)を傾(かたぶ)けむとす。豈天孫(あにあめみま)を以て鞍作に代(か)へむや」と述べると、皇極は、「天皇、即 (すなは)ち起ちて殿の中に入(い)りたまふ」というように無言で立ち去っています。

 この皇極王の態度をどう考えればよいのでしょうか?
 私は、皇極王は天智の行動を非常に不快(反対)だと考えたと思うのです。仮に、皇極が天智と同様に入鹿の行いを苦々しく思っていたのであれば、天智に対して「お褒めの言葉」があって当然ではないでしょうか。それは、ないのです。

 このように考えるからこそ、天智の弟(実は兄の可能性がある)天武が、九州王朝に人質であったという仮説を立てた理由です。皇極王にとって、入鹿を殺すことは、即ち、わが子である天武を死に追いやると考えたものと思います。これで、皇極王の退位後、すぐに天智が王位に就けなかった理由を説明できるのではないでしょうか。

 近畿天皇一元史観の方からすれば、驚天動地の見解ですが、大和の大王位に就くには、九州王朝の同意が必要なためだったのではないでしょうか? 

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術