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乙巳の変について (1)

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 大化の改新とは、645年に中大兄(後の天智)と中臣鎌足らが、蘇我入鹿を暗殺した事件ですね。
 しかし、学者には、日本書紀に記述する改革の信憑性に疑問を持ち、大化の改新ではなく、「乙巳の変」と呼ぶ方もおられます。

 私は、この事件は、表面的には、蘇我宗家(入鹿)と蘇我分家(倉山田麻呂)の争いではなかったのかと思います。

 ここで重要なことは、入鹿を斬った天智が、母親である皇極王に対して、「鞍作(「くらつくり」、入鹿のこと)、天宗(きみたち)を尽(つく)し、滅(ほろぼ)して、日位(ひつぎのくらい)を傾(かたぶ)けむとす。豈天孫(あにあめみま)を以て鞍作に代(か)へむや」と述べると、皇極は、「天皇、即 (すなは)ち起ちて殿の中に入(い)りたまふ」というように無言で立ち去っています。

 この皇極王の態度をどう考えればよいのでしょうか?
 私は、皇極王は天智の行動を非常に不快(反対)だと考えたと思うのです。仮に、皇極が天智と同様に入鹿の行いを苦々しく思っていたのであれば、天智に対して「お褒めの言葉」があって当然ではないでしょうか。それは、ないのです。

 このように考えるからこそ、天智の弟(実は兄の可能性がある)天武が、九州王朝に人質であったという仮説を立てた理由です。皇極王にとって、入鹿を殺すことは、即ち、わが子である天武を死に追いやると考えたものと思います。これで、皇極王の退位後、すぐに天智が王位に就けなかった理由を説明できるのではないでしょうか。

 近畿天皇一元史観の方からすれば、驚天動地の見解ですが、大和の大王位に就くには、九州王朝の同意が必要なためだったのではないでしょうか? 
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