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神武は居候だった?

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 私は、古田氏の見解から神武の東方への移動時期を紀元57年頃と考えています。
 それでは、古事記ではどのように記述されているのでしょうか?

 古事記では、「神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこ)、その同母兄(いろせ)五瀬(いつせ)命と二柱、高千穂宮(たかちほ)宮に座(ま)して議(はか)りて、云(の)りたまひけらく、『何処(いずこ)に坐(ま)さば、平らけく天(あめ)の下(した)の政(まつりごと)を聞(き)こしめさむ。なほ東 (ひがし)に行かむ』とのりたまひて、」と書かれています。最初から、大和に侵入する考えなどはなかったのです。

 そして、神武ではなく、兄である五瀬命をリーダーとして、阿岐(あきの)国(現在の広島県)、吉備(同岡山県)と良い土地はないかと移転したのです。ここで、日本書紀には、神武を狭野命(さののみこと)と記述していますので、以後、狭野命と呼びます(書紀では、「尊」ですが、ここでは「命」を使用します)。

 五瀬命と狭野命は、吉備から船で淡路島と徳島県との間の鳴門海峡を通り、大阪湾から淀川を上り、銅鐸文明圏の一つの中心地域ある東奈良遺跡(大阪府茨木市)、または、上の山遺跡(大阪府枚方市と交野市にまたがる地域)への奇襲攻撃をかけたのです。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is50302b.htm

 いずれの地域かは特定できませんが、ここでは、東奈良遺跡に侵入したと仮定します。そして、人数はたぶん数十人と推測しますが、失敗に終りました。現在の地形では、船で行ける場所ではありませんが、1世紀頃は、現在の大東市、四条畷市、東大阪市の北部は海の下で、大阪湾に繋がっていたのです。

 しかし、登美毘古(とみびこ)に破れ、敗走します。敗走の途中、リーダーの五瀬命は亡くなったため、「紀国の竈山(かめやま)」に葬られました。狭野命は、それから紀伊半島を迂回して、熊野にたどり着き、「高倉下(たかくらじ)」の協力を得て、紀伊半島の獣道を北上して、「畝傍(うねび)の白檮原(かしはらの)宮」で支配したと書かれています。

 古田氏は、これを“歴史的事実”とされたのです。私も正しいと考えました。

 しかし、この記述を史実だとすると、次の疑問が生じます。

 第一に、なぜ、敗走したのに吉備に戻らなかったのでしょうか?五瀬命が死んだぐらいですから、けが人もいたはずです。奇襲攻撃の場合に、こんな軍事的行動はあるのでしょうか?

 第二に、東奈良遺跡派と銅鐸文明の一方の一翼を担う唐古遺跡派(現奈良県田原本町)は、なぜ、侵略を許したのでしょうか? 唐古遺跡派に、狭野命を撃退する力がなかったとしても、東奈良遺跡派は、なぜ、撃退に協力しなかったのでしょうか? このことから、両派に深刻な対立があったのではないかと推測する訳です。

 第三に、人間の生存に不可欠な塩はどこから得ていたのでしょうか? やはり、高倉下から得ていたと思います。回りは敵ばかりですから。

 しかし、高倉下もいつもタダということはなかったでしょう。やはり、狭野命は米等と交換していたのではないでしょうか。重い米を担いで、獣道を崇神が河内平野を平定するまでの約150年間(推定)、熊野に通ったのでしょうか?

 こんな疑問を抱いていたところへ、古田史学の会事務局長の古賀達也氏が、熊野へ迂回して、大和に侵入した記述は、九州王朝の史書からの盗用であるという見解を発表されました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou48/koga48.html

 この古賀氏の見解には、古田史学内部で賛否両論があるそうですが、私は上記のような疑問を抱いていましたので、古賀説に賛同し、狭野命は、紀ノ川を登り、橿原に着いたと考えます。

 とすると、狭野命の「天(あめ)の下治(したし)らしめしき」とは、いったい何だったのでしょうか?

 私は、大胆に、東奈良遺跡派への奇襲攻撃に対する唐古遺跡派からの“論功行賞”だったのではなかったかと考えます。そのように考えると、私の疑問はすべて氷解するからです。

 狭野命(神武)は、唐古遺跡派にとって、良く言えば“客人”、悪く言えば“居候”だったのではないでしょうか。

 (参考)
 「神武東侵」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimmuj.html
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