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二人のハツクニシラススメラミコト

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 古代史では、「二人のハツクニシラススメラミコト」が問題となっています。これは、神武(狭野命)か、第九代の崇神(御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと))のいずれが、日本国の建国者かという議論です。

 建国記念日を祝う方は、当然に神武が建国者とみなしているでしょう。

 一方、神武から第八代の開化(若倭根子日大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと))までは、記紀編者の造作であるとする架空説があります。この架空説からすれば、崇神が、建国者となるでしょう。

 では、神武から開化までの八人は、架空だったのでしょうか?
 これまでの書込みを読んでいただいた方にはご理解していただいていると思いますが、私は架空ではなく、実在したと考えています。

 しかし、前回の「神武は、居候だった?」で書きましたとおり、神武は土地を貸し与えられていただけだと推測するのです。ですから、神武は、自ら木を切り、土地を耕しすなど農耕をしていたと想像します。開化までも同様の生活をしていたのでしょう。

 さらに、ただ単なる居候ではなく、九州王朝の威光を背景としていたことも確かなことだと思うのです。それは、他の地域では銅鐸が盛んに作られた時期に、奈良盆地から銅鐸が消滅したことが、それを示していると考えます。この銅鐸の消滅をもって、かつて古田武彦氏は、神武から開化の存在の証明であることと奈良盆地内の支配拡大だと主張されました。私も当時は古田氏の見解が正しいと考えました。

 しかし、現在では、神武等に“銅鐸人”は支配されたものではないと考えています。九州からやって来た神武の後継者を飾りとしてトップに頂いたとしても、支配・被支配の関係ではなかったのではないでしょうか?

 そして、古事記の崇神紀にある「ここに初めて男(をとこ)の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女(をみな)の手末(たなすゑ)の調(みつぎ)を貢らしめたまひき。故、その御世を稱(たた)へて、初国知(はつくにし)らしし御眞木天皇(みまきのすめらみこと)と謂ふ」は、字句のとおりそのままに理解して、初めて、被統治者を統治したと理解すべきものではないでしょうか?
崇神自身が弓を作らなくてもよくなった喜びを、素直に表現しているのではないでしょうか?

 もし、そうであるならば、皇国史観の持ち主ならいざ知らず、崇神を建国者と考えることはできないでしょう。そこらじゅうに、“国”を持っていた者は多いからです。私には、神武、崇神のいずれも、日本国の“建国者”とは考えることはできません。
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