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「磐井の乱」はなかったか?

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 古田氏が磐井の乱がなかったと考える理由は次のとおりです。

 第一に、古事記・日本書紀の両者に記述があるからといって、史実とは証明できない。

 第二に、九州王朝の年号に断絶がない。古田史学では、大和王朝に先立つ九州王朝には、すでに年号を使用していたと考えています。磐井(私見では、「倭武 (いぶ)」と同じように、「倭拝(いはい)か?」と考えます。)は、九州王朝の天皇(私見)ですから、殺害されれば、当然に年号の変更があるという推論です。

 第三に、筑後國『風土記』に継体の軍隊が、磐井を殺し、石人や石馬を壊したと書かれており、そして、現在の岩戸山古墳には壊れた石人や石像がある。

 しかし、この破壊活動は、白村江の戦い以後に日本に進駐した唐の軍隊が破壊したものであるという仮説を立てられています。

 第四に、磐井の乱以後に北九州地域の土器の様式が一変していない。

 私見の結論は、「磐井の乱(継体の反乱)があったとは証明されていない」ということです。

 しかし、磐井は、殺されたと考えます。別に、反乱を起こしたのが、継体でなくても良いからです。

 では、古田氏の論拠を検討しましょう。
 第一の論拠はそのとおりです。古事記・日本書紀に記述されているからといって史実とは限りません。しかし、逆に史実ではないとも証明できません。
 
 第二の論拠は理由に当たらないでしょう。磐井時の年号を特定できないからです。

 第三の論拠も当たらないでしょう。継体の軍隊に石人等が破壊され、磐井の息子である葛子によって回復されたが、さらに、唐軍によって再び破壊されたとも考えらるからです。
そして、第四の論拠ですが、これも理由にならないでしょう。書紀は、磐井を殺したが、北九州地方を制圧したとは記述していないからです。ですから、土器の様式が変化していなくてもおかしくないのです。

 以上のとおり、古田氏の第一の論拠以外には賛成できませんが、「継体が反乱を起こしたこと」は証明されていないのです。ここで、私も見解を変更したいと思います。
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