FC2ブログ

スポンサー広告

スポンサーサイト

 ←「磐井の乱」はなかったか? →豊後なる「天の香具山」の歌・・・大分県在住・出身のみなさんへ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 古代史
もくじ  3kaku_s_L.png 平安時代
  • 【「磐井の乱」はなかったか?】へ
  • 【豊後なる「天の香具山」の歌・・・大分県在住・出身のみなさんへ】へ
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit

未分類

継体の乱はなかった

 ←「磐井の乱」はなかったか? →豊後なる「天の香具山」の歌・・・大分県在住・出身のみなさんへ
 みなさんは、“磐井の反乱”と理解されているでしょうが、古田史学ではこれまで“継体の反乱”と考えていました。九州王朝に服属する継体というように、一般に理解されている主従関係とは逆の関係だと看做していたからです。

 そして、今回、古田氏が継体の反乱もなかったと見解を変更されました。私は初めてその改説を知った時、「古田さん、それはないよ。継体の反乱でそれ以後の史実を構築していたのに、今さら変えられても」というのが、正直な気持ちでした。

 しかし、前回に書きましたように私も「継体の反乱もなかった」説に同調するのは、次の理由からです。

 第一に、「神武の大和侵入」において、銅鐸文明圏内の一つの主要な中心地である東奈良遺跡(現大阪府茨木市)への神武の奇襲攻撃は、同じ銅鐸文明圏の唐古遺跡(現奈良県田原本町)側の誘導によってなされたと判断したからです。ですから、神武は大和に侵入したものとは考えません。

 奇襲攻撃は失敗しましたが、その論功行賞によって、「畝傍(うねび)の白檮原(かしはら)宮」の地を唐古遺跡側から貸し与えられたと判断しました。神武は、良く言えば、“客人”、悪く言えば、“居候”だったのです(笑)。記紀の大和侵入譚は、九州王朝史書からの盗作で、この盗作説は、古田史学の会事務局長の古賀達也氏が提起されたものです。

 第二に、私は、継体以後の史実を次のように捉えているからです。

 継体の息子である欽明は九州の地で人質として一生を終えた。その欽明の息子である敏達が蘇我馬子とともに吉備に進軍した(574年)。

 以上のように考えますので、記紀に書かれているからといって、簡単に信用できないという判断から、古田氏の「継体の反乱もなかった」説に賛同するものです。

 また、私は、磐井は、反乱によって殺されたと考えていますし、継体も同じように反乱で死亡したと考えています。ですから、その事実を隠すために造作したものと推測する訳です。後日、このことについて、書きたいと思います。
スポンサーサイト


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 古代史
もくじ  3kaku_s_L.png 平安時代
  • 【「磐井の乱」はなかったか?】へ
  • 【豊後なる「天の香具山」の歌・・・大分県在住・出身のみなさんへ】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【「磐井の乱」はなかったか?】へ
  • 【豊後なる「天の香具山」の歌・・・大分県在住・出身のみなさんへ】へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。